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平安時代[前期]

特徴

主建築が主体の専有空間であることは、それまでと変わらないのですが、客体のための空間が用意されるようになりました。具体的には、建物の前に回廊をめぐらし、中庭を造り、その中庭を客体のための空間としました。これに応じて建物に正面性がうまれました。間口が広く奥行きの浅いプランが多くなりました。前後非対称の造形が多くなされるようになりました。

建物に正面性が生まれたことにより、正面を強調する工夫もこの時代からよく見られるようになります。来迎壁や脇障子を用いて、背後を遮断し、正面を強調することもありました。

興福寺式配置

主に奈良時代からはじまり、平安時代にも長期間に渡り流行した建築構成を代表する例として興福寺が挙げられます。寺院建築に限らず、宮殿、住宅、神社などにも興福寺のような配置の建築がよく建てられるようになりました。さらに、その発展版として、鳳凰堂のような建築構成の寺院建築が流行します。こちらは、平安時代中ごろから頻繁に建てられるようになった形式です。では、それらがどのようなものだったのかを、見てみましょう。

興福寺式配置の寺院

仏堂のまえに、人間が入って礼拝や儀式をするための中庭があります。中門の左右から回廊がおこり、中庭をとり囲んで、金堂の左右におわります。中庭の中には何もなく、塔は中門の外か、あるいは南大門のそとに建てられています。

つまり、客体のための空間として、中庭が設けられるになったのです。回廊は、以前は塔や金堂など大切な建物を取り巻くための垣根であったのに対し、興福寺では、人間(客体)のための中庭を囲む垣根の役目をしています。中庭を設けたことで、仏堂に正面性が発生しました。金堂の内部は仏の専有空間で、人々の礼拝や儀式はすべて中庭で行われました。

寺院建築以外では、平安宮朝堂院もこれと似たような構成をしています。

興福寺
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺です。古代から中世にかけて強大な勢力を誇りました。前身は飛鳥の「厩坂寺」で、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源です。
山階寺は、669年に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。
その後、壬申の乱(672)の後、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、710年に藤原不比等の計画によって移されるとともに、興福寺と名付けられました。

鳳凰堂式配置

興福寺式配置ですでに、正面性が発生していたことは、前述の通りです。そこで、主建築をもっと立派に見せるために、その正面を立派にしようと試みて発展したのが、この鳳凰堂式の建築です。正面が強調される分、側面や背面はあまり重視されなくなりました。

プランとしては、間口を広く奥行きを浅くしました。この奥行きの浅いプランは、主建築にとどまらず、寺院の中門についても同じような傾向がみられます。なぜなら、初期寺院の中門は、回廊内の神聖な空間と外界との結節点として、機能上・造形上の理由から人が入って儀式の席などを設けられるように、奥行きの深いプランが要求されていました。しかし、客体のための中庭が設けられると、中門は単なる出入り口であれば良くなったため、奥行きが浅くなったのです。

鳳凰堂式配置の寺院

これは、興福寺式配置の変形のひとつの形式とみなすことができます。正面性が極度に発展した究極のものと言えます。鳳凰堂と全同じ構成をしていないものでも、これに属するような建築は多く、例としていくつかを挙げると、仁和寺(888)、法成寺新堂(1050)、法勝寺(1077)、延勝寺(1149)、無量光院(12世紀末)などがそうです。11世紀後半から12世紀を通じてこの主の寺院がたくさん建てられました。現存する実例が鳳凰堂のみであるため、特殊な形式として捉えられがちですが、実はこの時代の寺院建築のひとつのタイプであったのです。

鳳凰堂式寺院の特徴として、左右翼廊がコの字形をしていると言えます。これは、興福寺式の回廊の前半部を切除した残りで、左右の楼閣は鐘楼、経蔵が後方から進出し、装飾化したものと考えることができます。平安時代半ば頃の醍醐寺では、回廊は興福寺式ですが、鐘楼、経蔵は金堂の背後ではなく、東西回廊の中ほどにありました。仁和寺では南回廊がなくなっており、鐘楼、経蔵の位置はさらに移動しています。法勝寺は醍醐寺の前半部を取り去ったもので、鳳凰堂は仁和寺の東西回廊が短くなって鐘楼、経蔵が屋上の装飾になった形式です。

寺院建築以外でも、平安宮の中和院、太政官、大学寮とこれに付属する南道院、算道院、明法道院などがこの種の配置となっています。中央奥に主建築があり、そのまえ東西に主建築とほぼ同形の二棟の付属建物が縦方向に置かれ、これらをL形の複廊で継いだもので全体としてコの字形をなしています。

平等院鳳凰堂
平安時代後期1053年に、藤原頼通によって平等院に建立された阿弥陀堂です。華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として、このうえなく貴重な建築です。鳳凰堂は、池の中島に建てられています。
堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来像が端座し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれています。そして左右の壁の上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられています。
堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様で埋めつくされていました。柱にも、天衣を翻して舞う天人や楽を奏する天人、飛び立つ鳳凰、宝相華、唐草文様などが描かれ、鮮やかに彩色されていました。
建築の構成としては、中央に主建築があり、その左右から翼廊がでて前方へ直角に折れ、コの字形となり、その屈折点上に二つの楼閣をのせた左右対称の構成をしています。鳳凰堂には、尾廊という廊が後ろについています。前には池が配されています。
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