伝統建築
伝統建築
伝統建築 > 日本建築の歴史 > 近世
近世

特徴

近世の日本の建築空間は外国と比べて、最も特色のあるものが多く造られた時代です。中国や西洋の建築に見られるような座標軸にしばられた幾何学的な空間ではなく、左右非対称で自由な配置をしているのが特徴です。茶室、茶庭などで見られるように、動線の屈折、視線の遮断、あるいは部分空間の細分化などが進行しました。回遊式庭園である日本庭園は、進むにつれて新しい景観が展開されるように構成されています。
このような空間をつくり出した背景には、無常観という概念が潜んでいたと考えられます。無常観とは、世界を時々刻々と変化してとどまらない流動的な現象としてとらえるものです。その当時の人々の中にそういった精神があったからこそ、人が空間の中をめぐり、色々な光景を送り迎えしながら経験していくような空間を生み出すことになったとも言えます。

木割

桂離宮は、江戸時代初期に八條宮智仁親王の別荘として、京の南西の郊外に建てられたものです。最初に古書院、ついで中書院、新御殿と三度の造営で完成しました。二条城が、純粋な書院造の大成をめざしたのに対し、桂離宮の書院は、数寄屋構えをめざしたものでした。
近世は、木割術の発達普及した時代とも言えます。木割とは、柱間[はしらま]を基準に、ほとんどすべての建築各部材の寸法が、その整数比率で定められているものです。この柱間とは、柱の中心から中心の間隔をとる真真制[しんしんせい]でした。木割は、部材の比例を体系化した、いわば設計基準です。書院造は元々木割をもっているのですが、数寄屋造には木割がありません。桂離宮には木割というものが存在していません。
一般住宅や寺社建築では、木割が普及しました。1610年には『匠明』という木割書が完成しました。

畳の普及も商品流通の必要

内法制(柱の内がわの寸法を基準とする)が生まれ、長手が六尺三寸、短手が三尺一寸と規格化されていきました。畿内地方の畳の基準寸法は「京間」と称されました。関東地方では、六尺を一間とするため、畳の長手が五尺八寸短手が二尺九寸で、「田舎間」と称されました。
畳を中心として柱間寸法が定まり、室の大きさは畳の枚数で表されるようになっていきます(畳割制)。京間」の六畳に対して、「中京間」は約0.9「田舎間、江戸間」は0.85の広さと、地方によって部屋の広さが異なるようになっていきました。

数寄屋造

軽妙な意匠をした建物を公家達が好んで建てました。一般にはこれを数寄屋造りと云います。茶の湯が中世から近世にかけて流行普及して行き、茶のための独自の建築空間である草庵茶室が造られるようになっていきます。数寄屋造は、木割とは全く異なった秩序体系をもっています。
曼殊院は、大書院と小書院とが連なり、ともに数寄屋風の軽妙な意匠で構成されています。西本願寺黒書院は、曼殊院と同時代の建築で、明暦三年に完成しています。黒書院は、対面所である白書院の奥に位置し、主室の一の間には正面右手に一間半の床を設け、床柱には面皮柱を使っています。床の左の書院には花頭窓を開け、その左手前からやや離して違棚を設けています。透かし彫りの棚板や、植物をモチーフとした釘隠しの意匠、そして欄間の彫刻など独自の工夫した意匠で構成されています。
西本願寺は寺院建築でもあるため、基本的には書院造りであり、その気品を失わず、数寄屋造りの自由で軽妙なしゃれた意匠を随所に取り入れて、日常の風雅な居室として使用されていました。

桂離宮

桂離宮は数奇屋造で、木割とは全く異なった秩序体系をもっています。 桂離宮は、木割からも木材の規格寸法からも解放されています。畳の大きさもまちまちで、柱間の寸法も標準がありません。したがって、建具の寸法もさまざまに作られています。桂離宮は、回遊式の庭園が池を中心に展開しています。
古書院、中書院、楽器の間、親御殿と雁行して建てられた書院造りの様式をとっています。
茶室として作事された松琴亭は、庭園の中心をなす造形であり、桂離宮の庭園建築のなかでも白眉です。松琴亭の床の間および襖には、薄藍色と白色の加賀奉書紙が大胆な市松模様に貼り付けられています。桂離宮は数寄屋風書院造りの頂点に立つ建築でもあり、数寄屋造りと書院造りとの接点であり、書院の茶から数寄屋としての茶室への先駆でもありました。

茶室

茶が日本に伝わったのは奈良時代です。禅僧によって抹茶が伝えられるは、鎌倉時代に入ってからでした。室町時代に入ると、足利将軍をはじめ、武家社会や公家社会に急速に流行していきました。茶は、初めは公家や武士の座敷で行なわれていました。この座敷は広間や書院と呼ばれ、そこでの茶を書院の茶と言いました。
やがて、格式を重んじる書院の茶から、俗世間を超越した遊びの空間、茶のための専用の狭い空間を使うことになりました。六畳から四畳半さらには二畳と、極小空間を使うことで、精神的に高められた茶の湯を行なうようになりました。
茶道の始祖といわれる村田珠光によって四畳半座敷の茶の湯が広められました。国宝の慈照寺(銀閣寺)東求堂の北東角に、将軍足利義政の茶室として使われた、「同仁斎」があります。
また、堺の茶人武野紹鴎によって、数寄屋風茶室が工夫されていきました。

数寄屋風茶室

茶室の壁を土壁とし、土壁の下地である竹小舞[こまい]を見せた窓を開け、窓に竹の格子を付けるなど、草庵の風情を意匠に取り入れました。草庵茶室は千利休によって確立されました。千利休の手になると伝えられる茶室は、京の南にある下山崎の妙喜庵にある待庵です。二畳の茶室に一畳の次の間と一畳の勝手を設けています。一畳は点前[てまえ]の座で、もう一畳は客の座です。これだけしかなく、茶室としては極小空間と言えます。次の間を相伴客の席に使ったとしても三畳の空間です。高さ二尺六寸、幅二尺三寸六分の躪口[にじりぐち]から茶室に入ります。天井は、床のすぐ前と左手はノネ板(屋根葺用の薄板)に白竹打ち上げ、右手前の躪口を入ってすぐ上は、竹の垂木を見せた化粧屋根裏となっています。
化粧屋根裏の部分が、天井の低さをやわらげる工夫となっています。床[とこ]の中は隅柱を隠した室床[むろどこ]とし炉の上の壁も隅の柱を塗り込めて消しています。障子の骨は、竹を用い床の框には三つの節が見え、床柱は、北山丸太です。壁には、大きさや位置が異なる、明かり取りの障子が設けられています。壁面は土壁とし、加賀奉書紙を腰張貼り貼ってあります。
襖障子は太鞁張(たいこ)張りにした雲母(きら)の一色刷りの唐紙です。茶室を見通せないよう樹木を配し、飛び石も茶室へ進む客が歩きやすくしかも雅趣があり、さりとて作意の目立たないように配慮しています。路地を外と内に分け、その境に中門または中潜りを置きます。茶室へ入るのを待つ腰掛け、手を清める蹲踞[つくばい]、夜足元を照らす灯篭などさまざまな演出と意匠が施されています。

武家屋敷

武家屋敷の玄関は、門から石畳で玄関の式台につらなっています。玄関正面には舞良戸が嵌められていましたが、武家屋敷の場合は必ずその横桟の横舞良子の幅を三センチ以上の太いものを、七本から九本くらいの粗さにして、重厚で厳格な表現をしています。舞良戸は舞良子の多いもの程高級とし、時には三十五本も入れたものがあります。武家屋敷では、武威を示すため武骨なまでに太い舞良子を粗く配しました。玄関内部の正面は、大きな屋敷では槍床が設けられたが、普通は全部を壁面としました。正面を壁で塞いだのは、屋内を見透かせず防御の意味をもっていました。
座敷の天井は高くして、畳の上には一切物を置かず、万一の場合には戦えるように備えていました。座敷の長押の上には鎗掛けが設けられ、さらに用心のために長押の裏側に、石つぶての小石が隠されたりしました。台所の、板の間や土間が、屋敷の大きさに比較して大きいのは、いざ出陣という時の、支度のための準備に使うためでした。

二条城

1601年から三年かけて、家康が築いたものです。現存する二条城は、1626年の後水尾天皇の行幸に備えて、大改造したものです。現在は二室構成となっています。家康当時は上段の間、中段の間、下段の間の三室となっていました。上段の間の中央に、家康が座って対面の儀式を行ないました。上段の間は、書院造りの基本通りに正面に一間の床脇棚と三間の床の間が並び、広縁の側に付書院、そして右側に帳台構えを設けています。帳台構えの戸襖の後は、納戸となっており、万一のための用心に武者を入れて置くことができ、武者隠しとも言われています。上段の間の書院造りの様式は武家屋敷の座敷には必ず採用されていきました。中段の間は、上段の間より一段下がり、対面の儀式の参列者の中でも、特に官位・階位の高いものが、その順位で座しました。下段の間は、中段の間よりさらに一段下がり、厳格な席次で、列席者や対面者が座しました。下段の間の左手の広縁の前に、能舞台があり、能を見物するためです。 露地は、京や堺の町人たちが屋敷の奥に造った茶室への通路にさまざまの工夫を凝らした事に始まると言われています。茶室だけでなくそのアプローチの外部空間へも緻密な工夫と気配りを行なっていました。

広告